好きだから、ここにいる。12年続く広島での暮らし

トゥンさんが海を越え、広島の地を選んだ理由。それは、日本の持つ魅力に強く惹かれたからでした。
「日本の文化そのものが好きなんです。そして、互いに協力し合い、尊重し合える職場の環境も、私にはとても合っていると感じました」
言葉にするとシンプルですが、その想いを胸に12年間、この広島の地で働き続けてきたという事実が、何よりも雄弁に彼の気持ちを物語っています。「好き」という純粋な気持ちが、彼の人生を支える大きな幹となっているのです。

「よそよそしさ」が「愛着」に変わるまで

しかし、12年前、来日したばかりの頃は、少し違う景色が見えていたと言います。
「最初の頃は、どこか街全体がよそよそしいというか、自分との間に見えない壁があるように感じていましたね」
言葉も習慣も違う場所での、新しい生活の始まり。誰しもが経験するであろう、期待と不安が入り混じった心細さ。トゥンさんもまた、そんな気持ちを抱えていた一人でした。では、その見えない壁を溶かし、よそよそしさを温かい「愛着」へと変えたものとは、一体何だったのでしょうか。
その答えは、私たちが毎日、当たり前のように交わしている「あの言葉」の中に隠されていました。

魔法の言葉は「おはよう」と「ありがとう」

トゥンさんは、日本の職場で面白いと感じた文化について、こう語ってくれました。
「皆が、会うたびに必ず挨拶と感謝を伝え合うことですね。最初はただのルールや習慣なのかな、と思っていたんです。でも、毎日『おはようございます』『お疲れ様です』『ありがとうございます』という言葉を交わし続けるうちに、これが互いを認め合い、チームとしての繋がりを深めるための、すごく大切なコミュニケーションなんだと気づきました」
この「挨拶と感謝の文化」こそが、トゥンさんの心を温め、職場を、そして広島という街を、フレンドリーで親しみやすい場所に変えていったのです。彼にとってそれは、人間関係を円滑にする「魔法の言葉」のような発見でした。

最高の品質を届ける、職人の誇り

そんな温かい人間関係の中で、トゥンさんは自身の仕事に静かな誇りを持って取り組んでいます。彼が働くのは、精密さが求められる製造部門。
「やはり、自分の担当する仕事が順調に、ミスなく進んでいる時が一番落ち着きますね。そして、最終的に出来上がった製品の品質が良いものであった時に、言葉にできないほどのやりがいと満足感を感じます」
日々の挨拶が育む信頼関係を土台に、最高の品質を追求する。その実直でプロフェッショナルな姿勢は、まさに日本の「ものづくり」の心を体現しているかのようです。

家族と眺める、宮島の燃えるような紅葉

仕事に真摯に向き合う彼が、心からリラックスできるのは、愛する家族と過ごす穏やかな時間です。
「休日は、家族と一緒に散歩に出かけたり、きれいな景色を見て回ったりするのが好きですね。特に秋が深まってくると、よく宮島に渡ります」
世界遺産として知られる宮島が、秋の装いで燃えるような赤や黄色に染まる頃。その道を、家族と語らいながらゆっくりと歩く。そんな何気ない日常のワンシーンが、12年間この地で頑張ってきた彼にとって、何よりの宝物なのです。

敬意の心と、これからのささやかな楽しみ

「私の故郷ベトナムでは、年配の方をとても敬う文化があります。バスでは自然に席を譲りますし、お会いした時にはお辞儀をします。言葉遣いも、敬意を払った特別な呼び方をするんですよ」
日本の価値観にも通じる、人を敬う心。そんな文化で育ったトゥンさんだからこそ、日々の挨拶や感謝の言葉の大切さに気づくことができたのかもしれません。
最後に、そんな彼にこれからの夢を尋ねてみました。
「実は、まだやったことがなくて。今度、友達や会社の同僚と、のんびり釣りに行ってみたいんです。リフレッシュできたら最高ですね」
12年間、仕事と家族のために真摯に歩んできた彼が、少年のような笑顔で語ってくれた、ささやかで素敵な夢。その夢が叶う日を、私たちは心から応援したくなりました。